『がっかり』しない観光名所。札幌の時計台

ここ数か月、持病の糖尿病が良くありません。それでも猛暑酷暑の7月下旬、北海道まで観光旅行に出かけました。この体調不良の中、ヘロヘロしながら観光旅行?と自分でも思ったのですが、まあ、ずっと前から予定していましたからね。行くしかなかったのですよ。北海道、初めてですし。

福岡空港から新千歳空港まで2時間半。新千歳空港からJRで札幌駅まで20分。駅で昼食をすませ、北大のそばの静かなホテルの部屋に納まったのは、家を出てから6時間後。割に早く着くもんですね。九州から北海道まで。気温は18度、札幌市街の碁盤状の道路には涼しい風が吹き抜けているのですが、エネルギッシュな中国人観光客が溢れていて熱気むんむんです。聴こえる会話の8割は中国語。ばっちりバレリーナ風ポーズを決めての記念撮影に驚いて見とれる私。

ホテルの洗面台で顔を洗おうとしたら、水が冷たくて良い気持です。駅の中のカフェで食べたソフトクリームの何と言うおいしさ!新鮮な生クリームのコクと滑らかさがたまりません。インスリン注射を追加打ちしてでも食べたい、禁断のおいしさです。3日の滞在で4個食べました。あ~、北海道のソフトクリームの罪深き美味の虜に。ブルーベリーに似た「ハスカップ」のジャムを載せるとまた違った可愛らしい味わいになります。

下の写真は、「日本三大がっかり名所」のひとつと言われる札幌の時計台ですが、「あら、素敵!どこが、がっかり?」というのが私の感想。明治の洋館風な建物が大好きですし、都会のビル群の中に、夏木立に囲まれた白いペンキ塗りの建物が爽やかです。この建物は、札幌農学校の演舞場だったとか。

旧北海道庁舎。赤レンガの美しい建物と庭。周りは観光客でいっぱいなのですが、たまたま誰もいない空白の瞬間があり、絵葉書みたいに静かな写真が撮れました。館内に入り、ガイドボランティアさんから、ゆっくり北海道の歴史を解説してもらいました。クラーク博士が、弟子たちと別れる場面を描いた油彩の絵の前で初めて知った事実。それは、クラーク博士が9か月しか札幌農学校にいなかったことです。でも、「青年よ、大志を抱け」という言葉は、日本では永遠に残りそう。

小樽の運河は、私的には「がっかり度」最高でしたね~。この日は、急に気温が上昇して32度。北国とは思えない、じりじりとした暑さ。途絶えることなく押し寄せ、観光スポットの前で写真を撮り合う観光客の波、波。客引き。暑さと人混みと、典型的な観光地特有の雰囲気に当たってしまい、早々に札幌に戻りました。

 

 

『がっかり』しない観光名所。札幌の時計台」への3件のフィードバック

  1.  私自身札幌に旅行したのは丁度50年前の秋、まだ青函連絡船がある時代に上野から急行と連絡船を乗り継いでの旅でした。 北大にあるクラーク博士の胸像にももちろん会ってきました。 
     クラーク博士は確かに9カ月しか農学校での教鞭は取っておりませんが、なぜ今でも深く日本人の心に残っているのと考えた時…。(私見ですが)博士がが農学校の基礎を築いただけでなく、農学校から新渡戸稲造(一高校長)、岩崎行親(七高館長)、大島正建(甲府中校長)などの教育者を輩出したことではないかと思っております。(他ににも内村鑑三などの教育者/キリスト者も…) 
     因みに、上記三人の弟子たち(=すなわちクラーク博士の孫弟子)の中から、金森徳次郎以下4人が昭和21年11月3日交付の【日本国憲法】に吉田茂に続いて署名したことは、確率的にも偶然では無いような気がします。

    • お久しぶりです。クラーク博士の名が、なぜかくも長く日本に残ったか?という問題に関するジイジさまの見解には、私も全く同感です。戦前の軍部圧政の中で、優秀な弟子・孫弟子たちが、キリスト教的近代自由主義に立脚したクラーク博士の教えを、教育者として守り育てたからだと思います。札幌農学校は、実質的にはミッションスクールだったのでしょう。クラーク博士は農業経済学と同時にプロテスタントの教えを伝える伝道者だったと思います。博士自身も晩年、札幌での9か月を、自分の人生の最良の時間だったと述懐されたとか。新渡戸稲造、内村鑑三らが育ったのですからね。教師として嬉しかったと思いますよ。

      • 【クラーク博士とミッションスクールと百道浜】
         三題話みたいで申し訳ないのですが、波多江さんも学び育った百道浜に縁のある二人をご紹介します。
         今でも百道浜近くにある(中学)修猷館から一高に進んだ田中耕太郎は後に文部大臣/最高裁長官になりますが、新渡戸稲造・内村鑑三の教えを受け無教会派(後にカソリックに改宗)のキリスト者でもありました。
         また百道浜で”サザエさん”を誕生させた長谷川町子は上京後、これも新渡戸稲造・内村鑑三の教えを受けた無教会派キリスト教者である矢内原忠雄(元東大総長)から親しく教えを受けました。
         その意味では田中耕太郎はクラーク博士の『孫弟子』、長谷川町子は『ひ孫弟子』という事でしょうか。
          【ミッション・スクール】を『人としての志と使命を得る場所】と定義するならば、札幌農学校だけでなくその弟子たちが教鞭を執った一高、七高、甲府中学もまた”ミッション・スクール”と呼んでよいのではと思います。
          近ごろの高等教育機関が専門知識と実学を重んじるばかり、『志と使命』を伝えることが疎かになっている事を嘆かわしいと感じるのはジジィの繰言でしょうか…。

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