JR日光駅
「真夏の夜の怪談」。前回は、夜中に暗い部屋の天井に光が走り、壁にはサムライの大きなシルエットが浮かび上がって、慌てて飛び起きた旅先のホテルでの恐怖体験をお話したのでしたね。すわ、東照宮の奥の院に祀られている徳川家康公の亡霊出現か!?というところで話は終わり、後は<続く>。大仰な書き方で読者の興味を煽っておきながら、いつまで経っても続編を掲載せず、皆さまには不消化な思いをさせて申し訳ありませんでした。間が空き過ぎて、今更感満載ですが、責任上、続編を書きますね。
連れ合いと手分けして、物の怪の正体を突き止めることになった私は、洗面所であの叫び声を、難なく再現することができました。なんということはない、浴室の水道栓が古い手回しタイプで、ある角度になると「キーッ」と女性の叫び声のようなきしみ音が発生するのです。そういえば、お湯を出している間は、気味の悪い叫び声がしましたが、シャワーを止めると叫び声も止まりました。
天井を走る明かりは、私のベッドの枕元のライトが完全に消えておらず、時々、行灯のように息づき、明るくなったり、暗くなったりして天井を照らすのでした。つまみを最後まできっちり回して完全に消灯すると、天井を走る明かりも消えてしまいました。
連れ合いは、部屋の電気をつけて壁掛けテレビの裏を調べています。テレビの裏の配線の具合でしょうか。右裏で小さな青い光が定期的についたり消えたりしていて、部屋を暗くすると、まるで右袖がパタパタと動いているように見えるのです。黒い幅広の柱、黒縁の壁掛け時計。その下に大きな壁掛けテレビ。一番下には黒い引き出し。見ようによっては、着物を着てドッシリ座っている大きな人影が団扇か扇子かであおいでいる姿のようでもあります。
部屋中の灯りをつけて、やれやれ、一件落着。お茶でも飲みましょうかと、ふとカウンターの上を見ると、1枚の紙が…。「ただ今、当ホテルでは全館電気工事をしております。不具合がありましたらご容赦ください。」ですってさ。
廊下を走るスリッパか草履かの足音の正体は分からないままでした。座敷ワラシではなく、小さな子供たちがスリッパを履いて走り回っていたのかもしれません。いずれにしても妙な宿でした。
怪談というのは、ビクビクしている時の見間違いや思い込みから始まるもののようです。でも、その時の不気味な雰囲気や恐怖感は結構根深くて、トラウマというほどではありませんが、後引きます。
実は、このささやかな怪談を書いている時、日光でフランス人女性が行方不明になったというニュースが報じられました。私達の滞在とは重なっていないのですが、あの鬱蒼とした森や急流が日本好きの36歳の養護教諭を呑み込んだのではないかと思うと、怖くなってしまうのです。
その女性は、昨年7月28日に、ひとりでJR日光駅に降り立ち、ホテルに一泊した後、翌29日の午前中、軽装で出掛けたまま、戻って来ませんでした。スーツケースもパスポートも部屋に置かれていて、近くを散策するつもりだったようです。女性にはてんかんの持病があり、毎日の服薬が欠かせませんでした。私にも持病があり、注射や薬がないと生死に関わります。定期的に検査もしなくちゃなりませんから、外国でふらっと行方をくらますなんてありえません。栃木県警は、川やダムや森林の中まで警察犬やドローンを使って必死に捜索しました。女性の家族も来日して駅でビラを配ったり、安倍首相やマクロン大統領に直訴したのですが、それから5ヵ月余り経った今も、行方不明のままです。携帯電話のGPS機能はホテル周辺で途絶えているとのこと。昨夏の暑さは慣れた日本人にも耐えがたいものでした。疲れからてんかん発作が誘発されて川に転落し、折しも前日までの雨で増水した流れに揉まれてダムを通り抜け、海に出てしまったのではないかと推測されているとのこと。そうとでも考えなければ、まるで神隠しのような失踪です。早く見つかりますように。
(おわり)