真夏の夜の怪談(その3)・完結編 平成 31年 正月

    JR日光駅

「真夏の夜の怪談」。前回は、夜中に暗い部屋の天井に光が走り、壁にはサムライの大きなシルエットが浮かび上がって、慌てて飛び起きた旅先のホテルでの恐怖体験をお話したのでしたね。すわ、東照宮の奥の院に祀られている徳川家康公の亡霊出現か!?というところで話は終わり、後は<続く>。大仰な書き方で読者の興味を煽っておきながら、いつまで経っても続編を掲載せず、皆さまには不消化な思いをさせて申し訳ありませんでした。間が空き過ぎて、今更感満載ですが、責任上、続編を書きますね。

連れ合いと手分けして、物の怪の正体を突き止めることになった私は、洗面所であの叫び声を、難なく再現することができました。なんということはない、浴室の水道栓が古い手回しタイプで、ある角度になると「キーッ」と女性の叫び声のようなきしみ音が発生するのです。そういえば、お湯を出している間は、気味の悪い叫び声がしましたが、シャワーを止めると叫び声も止まりました。

天井を走る明かりは、私のベッドの枕元のライトが完全に消えておらず、時々、行灯のように息づき、明るくなったり、暗くなったりして天井を照らすのでした。つまみを最後まできっちり回して完全に消灯すると、天井を走る明かりも消えてしまいました。

連れ合いは、部屋の電気をつけて壁掛けテレビの裏を調べています。テレビの裏の配線の具合でしょうか。右裏で小さな青い光が定期的についたり消えたりしていて、部屋を暗くすると、まるで右袖がパタパタと動いているように見えるのです。黒い幅広の柱、黒縁の壁掛け時計。その下に大きな壁掛けテレビ。一番下には黒い引き出し。見ようによっては、着物を着てドッシリ座っている大きな人影が団扇か扇子かであおいでいる姿のようでもあります。

部屋中の灯りをつけて、やれやれ、一件落着。お茶でも飲みましょうかと、ふとカウンターの上を見ると、1枚の紙が…。「ただ今、当ホテルでは全館電気工事をしております。不具合がありましたらご容赦ください。」ですってさ。

廊下を走るスリッパか草履かの足音の正体は分からないままでした。座敷ワラシではなく、小さな子供たちがスリッパを履いて走り回っていたのかもしれません。いずれにしても妙な宿でした。

怪談というのは、ビクビクしている時の見間違いや思い込みから始まるもののようです。でも、その時の不気味な雰囲気や恐怖感は結構根深くて、トラウマというほどではありませんが、後引きます。

実は、このささやかな怪談を書いている時、日光でフランス人女性が行方不明になったというニュースが報じられました。私達の滞在とは重なっていないのですが、あの鬱蒼とした森や急流が日本好きの36歳の養護教諭を呑み込んだのではないかと思うと、怖くなってしまうのです。

その女性は、昨年7月28日に、ひとりでJR日光駅に降り立ち、ホテルに一泊した後、翌29日の午前中、軽装で出掛けたまま、戻って来ませんでした。スーツケースもパスポートも部屋に置かれていて、近くを散策するつもりだったようです。女性にはてんかんの持病があり、毎日の服薬が欠かせませんでした。私にも持病があり、注射や薬がないと生死に関わります。定期的に検査もしなくちゃなりませんから、外国でふらっと行方をくらますなんてありえません。栃木県警は、川やダムや森林の中まで警察犬やドローンを使って必死に捜索しました。女性の家族も来日して駅でビラを配ったり、安倍首相やマクロン大統領に直訴したのですが、それから5ヵ月余り経った今も、行方不明のままです。携帯電話のGPS機能はホテル周辺で途絶えているとのこと。昨夏の暑さは慣れた日本人にも耐えがたいものでした。疲れからてんかん発作が誘発されて川に転落し、折しも前日までの雨で増水した流れに揉まれてダムを通り抜け、海に出てしまったのではないかと推測されているとのこと。そうとでも考えなければ、まるで神隠しのような失踪です。早く見つかりますように。

(おわり)

 

隣のまちこちゃん

昭和23年(1948年)生まれの私は、今年、70歳を迎えました。この秋は、小学校と中学校の古希記念同窓会に続けて出席。

今までの同窓会では味わったことのない、素直な懐かしい気持ちになりました。

大方の同級生は現役を退いて、昔のようにせかせかと仕事や子供の受験の話などはしません。これから一旗揚げてやろうなどいう野心もなく、お互い身体の不具合を披露しつつ、枯れた心境で、純粋に子供時代を語り合うだけですから。

そんな同窓会で幼馴染のまちこちゃんと会って、久しぶりにゆっくり話をしました。まちこちゃんと私は、幼稚園から高校まで一緒でしたが、一番仲良くしていたのは小学校時代。福岡市早良区藤崎の教職員住宅でお隣に住んでいた頃です。

まちこちゃんのお父さんは経済学の、私の父は教育学の教師でした。まちこちゃんは、歳の離れた弟と両親との4人家族。わが家は、年の離れた2人の兄に末っ子の私と両親との5人家族でした。教職員住宅は2階建て。当時は珍しいメゾネットタイプで、トイレは水洗。コンクリートのベランダと小さな庭と各戸に物置小屋がついていました。

まちこちゃんはバイオリンを習っていて、私はピアノを習っていました。毎日、まじめに一生懸命練習をしていたまちこちゃんは、音大を卒業してバイオリニストになりました。気まぐれにしか練習しなかった私は、途中でピアノを弾くのを止めてしまいました。

同窓会で、初めてしみじみと来し方を語り合った私達は、それぞれの家に帰って写真やメールを交換しました。以下、まちこちゃん所有の、幼稚園の時のツーショット。右がまちこちゃんで左が私です。あどけないですね。メールもまちこちゃんの許可を得て、公開します。

まちこちゃんへ

 古希同窓会は、ほんとうに楽しかったですね。Iさんとも久しぶりにお目にかかれて嬉しかったです。

「隣りのまちこちゃん」は、私のエッセイにときどき登場する女の子です。

まちこちゃんは、私のように夏休みの宿題帳をなくしたり、ラジオ体操をさぼったりしない、きちんとしたまっとうな女の子です。

まちこちゃんが大事にしていたままごと用の小さな陶製ポットの注ぎ口を私が割ってしまったときも全然怒らない優しい子です。

まちこちゃんは、お風呂上りに金魚模様の浴衣をきて、おでこに「天花粉」をちょっとつけて、お母さんと弟と夏祭りに出かけていました。

「金魚模様のゆかた、いいな~」と羨ましかったものです。

うちの母は「芸術家」だったので、母の手製のベトナム風のワンピースを着せられ、

帽子(三角形の)をかぶせられて困惑していた私は、まちこちゃんの普通の浴衣に憧れていました。

 

 

のぶこちゃんへ

なんだか心がほっこりそして、じーんとするメールを頂きました。

そして思うこと・・となりの芝生はあおいのですね!

私は伸子ちゃんの家がうらやましくて・・おばちゃんはとても

お料理上手で・・確か私が病気で休んでいた時グラタンをいただいたのです。

グラタンなぞうちの母が作れるわけなく、とても美味しくておまけに周りに

マッシュポテトの絞りが飾りについていました。そのようなグラタンはその後

お目にかかったことはありません! そしてプリンも美味しかった!

伸子ちゃんは末っ子の女の子だったので厳しくされなかったと思います。

わたしは長女で最初の子・・いやがおうにも厳しくしつけられいつも良い子を求め

られました。末っ子はいいな~と今でも思います。

とは言え、そんなこともあったかしらん?(金魚の浴衣は記憶にないのですが

母の姉の家が呉服屋だったので、浴衣もあったのでしょう)

本当に懐かしい~!

母と違って私は娘を厳しく育てませんでした。父親はもっともっと(笑)

生意気に生きていますが、親としては行先を案じるばかりです。

しばらく私は故郷から背を向けておりましたが、これからは少し振り返ってみようと

思います。 またお目にかかれるのを楽しみに! お元気で!

まちこより

写真 同封いたします。

 

 

 

 

真夏の夜の怪談 (その2)

日光東照宮は、徳川家康を祀った神社です。1616年、元和2年。家康は数え年75で亡くなっています。胃がんだったと言われていますが、当時としてはとても長命ですよね。遺言に従い、遺体は隠居ずまいのあった駿河の久能山に埋葬され、葬儀は徳川家の菩提寺である江戸の増上寺で行われました。また、これも遺言通り、1周忌には久能山から日光東照宮に分霊されました。家康は、死後、自分が樹立した徳川幕府と配下に収めた諸国を、神となって守ってあげようと考えたのです。日光は江戸城の北方向です。方角的に日光は江戸城の鬼門でもあり、同時に不動の北極星への道でもあります。北極星を背負ったこの位置から、江戸城の守護神として永遠に力を振るい続けようと壮大な死後の計画を立てた徳川家康は、一体どんな人物だったのでしょう。

杉木立の間を、167段の石段を上り詰めた奥宮に、家康の墓所はありました。

極彩色で絢爛豪華な東照宮の陽明門界隈に比べると、奥宮は、金属でできた八角形の簡素な霊廟です。鶴と亀の置物が置かれているほかは、装飾らしいものもなく何とも地味な佇まい。でも、辺りには、山の荘厳な気配がただよっています。このお墓のデザインも家康が考案したものでしょうか。東照宮には、子孫の忖度も含めて、隅々まで支配者としてのこだわりが見て取れます。家康は、もしかして、自分の墓所に海外から外国人が押し寄せる現状も想定していたのではないかしらん、と思えるほど、見るものを飽きさせない意匠の凝らし方です。

そしてその夜、泊まったホテルの部屋に、なんと、その家康の「亡霊」が現れたのです。

掃除は行き届いているものの、古い仕様のホテルでした。フロントでは、カードキーではなく昔風のプラスチックの角棒型キーホルダーのついた鍵を渡されました。ドアを開けると、かなり広いツインルーム。窓は無く、壁の一部が四角く部屋側に張り出しており、そこに鍵のある小さな扉がついています。扉の取手は、押しても引いてもビクともしません。まるで裏にもう一部屋小部屋があるような、妙な作りなのです。壁には幅広の黒い板が貼られ、そこに大型の壁かけテレビが取りつけられていました。暑い中、家康の墓所 までの長い石段を登り下りしたので、脚が弱い連れ合いは疲れ果てたらしく、早々に寝てしまいました。

今夜は私も早仕舞い。そう思いながら入浴の準備をしていると、廊下をパタパタと走る音がします。部屋の前を何人かの人が慌ただしく行ったり来たりしている様子。スリッパか草履か、そんな感じの足音です。「なんだろう?」と、そっとドアスコープから覗いて見ましたが、人の姿はなく前の部屋のドアも閉まっています。あれ、変だなー、確かに今、足音がしていたのに・・と不思議に思いながらシャワーを浴びました。水道栓をひねる旧式のシャワーです。髪を洗っていると、突然、すぐ近くで「キャーッ!」という鋭い叫び声が聞こえます。慌てて水を止めてシャワーカーテンの隙間から覗いたのですが、浴室には誰もいません。隣の客室で何事かあったのかしら、あの足音と悲鳴は何だったのだろう。気味が悪くなった私は、大急ぎで髪を乾かしました。ドライヤーを使いながら、鏡に見知らぬ人の顔が映るのではないかとビクビクしています。私は臆病な方ではありません。縁起を担ぐこともなく、神仏に縋ることもなく、子供の頃から心霊現象なんてちゃんちゃらおかしい、と思ってきた合理的なタイプの人間です。その私が、なぜかその夜に限って物の怪に怯えてビクビクしているのです。もうとにかく、早く寝てしまおう、朝になったら気分も変わっているだろう。

眠っている連れ合いを起こさないようそっとベッドにもぐりこみ、入眠剤を半錠飲んで枕元のランプを消しました。眠りに落ちようとするとき、馬が何百頭も目の前を駆け抜けていくような光景を見ました。

誰かの声がします。「寝てる?」。連れ合いの声です。どうしたんだろう。この人も豪胆な人間です。これまで、寝ている私を夜中に起こすようなことはありませんでした。「さっきから、天井に明かりが走ったり消えたりしているんだけど」。寝ぼけまなこで天井の様子を見ていると、確かに部屋がボウッと明るくなり、しばらくすると暗くなります。寝たまま頭を巡らすと、私の枕元の電灯が勝手についたり消えたりしているのです。行燈みたいに。そして、暗くなると壁に人影が浮かび上がります。

うちわのようなものでパタパタと身体を扇ぎながら、どっしりと座っている人影。右の袖が揺れています、連れ合いが備え付けの浴衣を着ているのかな?うちわは、昨日、はとバスでもらったもの?連れ合いに訊ねます。「暑いの?」「どうして?」「だって、あなた、さっきからうちわで扇いでいるじゃない。ベッドに座ってさ」というと連れ合いは一瞬黙りこんで、それから言いました。「ずっと横になってるよ」。え~っ、だったら、あれは誰の影?あの戦国の武将みたいなシルエット。もう、ホント、関ケ原の徳川家康じゃないですか。天下分け目の軍配を振っています。半分、寝ぼけていた私はベッドに飛び起きました。枕元の時計を見ると午前2時。丑三つ時です。(つづく)

梅雨。ですが、私の鬱は明けました!

皆さま お変わりございませんか? 桜の季節から、ふた月余りもご無沙汰していました。コメントをいただいてもお返事もできずに失礼しました。はや6月。梅雨に入って、辺りの景色は湿っぽく鬱陶しいのですが、私の気分はとても明るくなりました。精神科のかかりつけ医や睡眠障害の専門医のおかげで、半年ほども続いた長いうつ症状もようやく終焉。「気分障害」ですから、治ってみると、あの暗い霧の世界、焦りと不安に翻弄されていた日々は何だったのだろう?と、実感のない記憶の世界になってしまいます。おそらく、一番、治療効果があったのは、毎晩11時半に寝て、規則正しく8時間の睡眠を取ったことです。それまで、10年以上も2~3時就寝でしたから。鬱になってからは早朝に目が覚めて3~4時間しか眠れていませんでした。ぐっすり眠れるのがこんなに気持ちの良いものとは知りませんでした。大学の隣にある修猷館高校の塀沿いの並木道。若葉が雨に濡れている様子がとてもきれいです。若葉に感動するってこんなにウキウキと嬉しいことなのですね。修猷館高校の卒業生の皆さん。これは懐かしい記憶を呼び覚ます写真ではありませんか?

   

そうだ。大学の後輩、香川うどんに見せてあげようと思って写した、学食ランチ「和定食」の写真もアップしておきます。小ライスなので420円。昔の学食に比べると、建物もランチの内容もおしゃれな感じ。ものすごく美味しいとは言えませんが、安いし量がたっぷりあるし、栄養バランスも良いので、学生だけでなくご近所の子連れのママたちにも人気のようですよ。私は、昼下がりの、静かになった学食で、ひとりゆっくり遅めのランチを取るのが好きです。

今年もちょっと、鬱色の桜見物

昨日、近所の友人とささやかな桜見物に出かけました。うちから地下鉄で数駅の、中村学園大学の構内の桜です。本数は少ないのですが、大学の建物越しに見える景色が素敵なのです。ハードな がん治療後の後遺症に悩む友人と、糖尿病がパッとしない私。今年も桜が見られて良かったと、それぞれ心の中で思いながら、満開の桜を眺めたことでした。

中村学園は栄養や調理で知られた学校なので、学食にも力を入れています。地域の人たちに開放された学食のランチは美味しくて栄養のバランスがよく、あっという間に売り切れてしまいます。

ちょっと遅く着いてしまった私達。ランチにはありつけず、カレーを食べておしゃべりを楽しみました。桜の季節は毎年、鬱っぽい気分で迎えますが、桜そのものに、日本人の気持ちの深いところをそっと揺さぶる憂いがまとわりついているのでしょうか。

 

新春の講演会ご案内 森田療法のこと  

新年を迎えました。本年も「波多江伸子の部屋!」。どうぞ御贔屓によろしゅうお願い申し上げます。

さて、今年、私は70歳。古希になりますとですよ。自分では十分に年を取ったと思うのですが、高齢社会の日本では、70歳なんて、まだまだ高齢者の末席です。人生50年の時代は長老だったのでしょうけど。これまで、まともに勤めたわけではないので定年もなし、その代り厚生年金もなし。通院以外の贅沢はしませんが、その医療費がバカにならない。月に4万円もかかるのです。死ぬまで治療が必要な慢性疾患なので、今年も医療費を稼ぐために、細々とパート教師の仕事を続けます。

ここ10年位は、仕事よりボランティア活動の方が圧倒的に多く、特に、がん患者団体の活動は、それなりに成果を上げたとは思っています。しかし、代表の私もメンバーも、自分の家庭や健康はうっちゃって、患者サロンやピアサポートやがん啓発活動に駆けずり回ってきました。活動助成金は申請すると毎年いただけるのですが、私たちボランティアの交通費や事務局運営費は全部自腹を切ってやってきました。あ~、専従の事務局スタッフがほしい、その人に支払う給料がほしい。使途制約のない寄付金がほしいと、最近思います。お金がほしいと。でもその反面、病人と高齢者の集まりであるがん患者団体「がん・バッテン・元気隊」に、これ以上の活動は無理だと思うので、多額の寄付や支援金をいただくと負担になるかも・・なんて考え、何だか腰の引けた「ご寄付のお願い」になってしまうのですよね。

さて、昨夏から始めたもうひとつのボランティアは、NPO法人日本医学ジャーナリスト協会西日本支部の活動です。こちらは、九州山口の医学・保健・福祉に関する情報を発信する人たちの勉強や交流の場です。現職や元職の新聞記者やTV局の記者。フリーランスのライター、医師・保健師などが会員です。私は・・う~ん、どんな立場なのかな~。患者で医療問題のノンフィクションライター、と言ったところでしょうか。西日本支部では毎月、話題の医療者・研究者を講師に招いての講演会を開催しています。1月の講師は、九州大学教授で、精神科医・臨床心理士の黒木俊秀さん。100年前に日本で生まれた独創的な精神療法「森田療法」の現代的な応用の話です。案内状は以下に添付しています。参加ご希望の方は、私宛にお申し込みください。関心がありそうなお知り合いを誘っていただければ助かります。

日本医学ジャーナリスト協会西日本支部新年例会

 

築地・国立がんセンターでお寿司を食べる 

前回、睡眠薬をべルソムラに変更したら、夜中に金縛りが出現し、あえなく1回で中止した話を書きました。すると、知人から手紙が・・。「私もべルソムラでひどい悪夢にうなされ、すぐに挫折しました。『そうだ、そうだ』と言いたくて」手紙を書いたのだそうです。私同様、彼女もまたレンドルミンに戻り、「眠れずに翌朝血圧が上がるよりはいいかと、ためらわずに飲んでぐっすり眠っています」とのこと。以前住んでいたマンションの、仲良しのご近所さん。きれいな筆跡の手紙。懐かしかったです。ありがとう。私も、最近、努めて手紙を書くようにしています。忘れていた字も思いだすし。

さて、久しぶりに仕事で東京へ行きました。国立がん研究センターの19階のレストランで、ランチに海鮮ちらしを食べました。ハーフサイズです。眼下には築地市場が。だからでしょうね。ここのお寿司はすし職人が作ったような感じなのです。10数年前、5年生存率50%の悪性度の高い胃がん、と言われたばかりの友人と、まるで最後の晩餐のような気分で、このお寿司を食べた記憶が蘇ります。胃を全摘したけれど、友人は今も元気に暮らしています。!(^^)! この度、テーブルの前にいる人も、同じ頃、同じように悪性度の高い胃がんと言われた別の友人。胃が無くても、ゆっくり食べれば、無事お腹に納まるもののようです。身体の一部を失うと、近くの器官が代償的に働いてくれます。身体はなんて健気で頼りになるのでしょうか。

睡眠薬べルソムラで、金縛り状態に

久しくブログを休んでいたので、文芸部の後輩、香川うどんが心配してメールを寄越しました。卒業して47年経ちますが、いつまでも優しい後輩です。大学は学祭が終わって祭りの後。準備に忙しかった学生たちが教室に戻ってきて、前回のタナトロジー(死生学)は230名を超える受講生で教室がいっぱいでした。

さて、わたくし。長年、睡眠薬を飲んでいます。もう10年以上になりますかね~。ベンゾジアゼピン系のレンドルミン(商品名)という薬です。デパスとかマイスリーもこの種の薬。よく効きます。パソコンの強制終了みたいに突然眠ってしまいますが、作用時間は比較的短く、夢を見ることもなく、寝ざめはすっきりして私には良く合っています。夜中の2時3時に就寝する私にとって、確実な睡眠を約束してくれる睡眠薬は必需品でした。ただ、この薬には、依存性や耐性があると言われており(当初は、副作用がないという触れ込みで発売されたのに)、主治医から新しい薬への変更を勧められました。その名もべルソムラ「美しい眠り」。2014年から発売されている、オレキシン受容体拮抗薬と呼ばれる睡眠薬です。耐性ができない、自然な眠り、リバウンドしない、と良いことずくめのように言われますが、ほんとかいな?レンドルミンみたいに、後になって、あの薬は実は問題があったということになるのかもしれません。

睡眠には「レム睡眠(REM)」と「ノンレム睡眠(non-REM)」の2種類があり、睡眠中はこの2種類の睡眠が交互に繰り返されます。レム睡眠はいわば、脳が起きていて、身体が眠っている状態。ノンレム睡眠は脳は眠っていて、身体が起きている状態です。睡眠中、脳と身体が交互に休むわけです。で、夢をみるのは脳が起きているレム睡眠中。私が飲んでいるレンドルミンはレム睡眠を抑えるので夢を見ません。

新しい睡眠薬べルソムラはオレキシン受容体拮抗薬、つまりオレキシンのはたらきをブロックし、自然にまぶたが重くなって眠くなる作用を持っています。で、夢を見ます。

初めてべルソムラを飲んだ夜、恐ろしいことが起こりました。寝付いたかどうかという状態のとき、突然、寝室の窓が明るくなり、光が差し込んで窓枠がガタガタと揺れ始めました。地震?火事?と跳ね起きようとしたのですが、どうしたわけか身体が動かないのです。意識ではもがいているのですが、身体はマネキン人形みたいに、ただゴロンと布団に転がっているだけ。そのうちに、誰かが寝室のドアをどんどん叩き始め、恐怖でもうパニック状態です。目を開けると天井には両手をかざした魔物のような黒いシルエットが、光の中をグルグルと回っています。とにかく部屋中が騒々しく、ドンドン・バタバタ・ガラガラと工事現場のような状態。家族を呼ぼうとするのですが声が出ません。どのくらい経ったのか、渾身の力を込めて両手両脚を踏ん張るとすっと起き上がれました。ハァハァと肩で息をしながら辺りを見回すのですが、寝た時の暗い静かな部屋に戻っていました。私は金縛り状態になっていたのです。べルソムラのせいだと思い当たりました。明け方の4時。その晩は眠るのが怖くて、夜が明けるまで起きていて、薬の効果が無くなった頃、やっともう一度眠った次第です。

精神科や睡眠障害の専門医にその話をすると、「ほう、出ましたか!」と、とても興味深そうな目になります。べルソムラはその作用機序から、頻繁に悪夢や金縛り状態が生じるのではないかと懸念されていましたが、その後、ほとんどそんな報告はなく、何となく良い睡眠薬として使用されているのだそうです。

私の連れ合いも、べルソムラを処方されて試しましたが、夜中から朝目が覚めるまで、 何とも言えない頭痛に悩まされたと言っていました。少なくともここにふたり、べルソムラの副作用が顕著に出た患者がおります。製薬会社さん、調査をお願いします。で、わたくし。眠剤を少しずつ減量し、最終的には使わずに眠る練習をしています。

 

 

柳井の金魚ちょうちん

毎年7月になると、「柳井の金魚ちょうちん」を棚の奥から取り出して玄関に飾ります。私のささやかな夏の楽しみ。網戸から入るそよ風に、金魚の親子がゆらゆらと揺れています。天井に吊るした青いガラスのランプシェードがまるで金魚鉢のように見えるでしょう?10年以上前に、山口県在住の知人から頂いた県の特産品ですが、箱を開けた瞬間に一目惚れ。早く飾ってみたいとワクワクしました。色といい、形といい、なんと可愛らしくて生き生きとした造形でしょうか。曲げた竹ひごに紅白に染め分けた和紙を張って、お目々は墨で黒々とパッチリと描かれています。

柳井は山口県の広島寄りに位置する港町です。先日、柳井港からフェリーで愛媛に渡る旅行をしたことはここで書きましたよね。フェリーの客室の天井に古ぼけたちょうちんがたくさん下がっていました。「そうだ。親しい人へのお土産に買って帰ろう」と、帰りに柳井市内の郷土民芸品店を探したのですが、もう日も暮れる頃なので産物店は締まっています。市内のどこにも下がっていにないのです。柳井市商工会議所に電話をして、まだ空いているお店を教えてもらい、やっとのことで棚の上に一個だけ残っていたちょうちんを売ってもらいました。金魚ちょうちんは廃れたのかな~と心配していたのですが、どこかに山ほど隠し持っていたのですね。

お盆が近づく頃、柳井市では金魚ちょうちんまつりが盛大に開かれます。浴衣を着た子供たちが、これでもかというくらいの金魚ちょうちんの下で可愛く踊っているニュースをTVでやっていました。私たちが行った5月ごろは、祭りのためにちょうちんを販売していけないというお触れが出ていたのかもしれません。