子猫モカの皮膚病も、ひと月余りの治療でようやく治りました。わが家に来たばかりの頃は、小さな白い子猫で目の色も灰青色だったのですが、毛並みが生え揃うと耳とシッポと脚先、それに顔が焦げ茶色になってきました。どうやらシャムが混じっているようで、目はきれいなアクアブルーに。私は、昔から、青い目の猫が飼いたかったので嬉しかったです。
子猫の皮膚病騒動
子猫がやって来て1週間ほど経つと、この子はもしかして皮膚病を持っているのではないかと気になり始めました。身体を撫でると毛並みの下がゴワゴワと硬いのです。特に、首や頭、目の周り、手足。外からは見えないけれど皮膚がでこぼこして湿疹のようなものがたくさんできている感じ。子猫自身も痒がって始終身体を掻いています。亡くなった老猫メロンが生まれつきの皮膚病持ちで、子猫の頃から20年間、耳たぶの湿疹に悩まされ病院通いの日々でした。この子もアトピーだったらどうしようと心配しながら動物病院に連れて行きました。途中逃げ出さないように洗濯ネットに入れて抱いて行きます。
なかなか名前が決まらず、チビとかミャーとか適当に呼んでいましたが、病院ではカルテを作るので名前が必要です。行き道、「なな」にしようと決めて病院の受付で順番待ちの名簿に「なな」と書き込もうとしたら、前の患猫さん?の名前も「なな」でした。続けて同じ名前もなんだかな〜。ということで、急遽、第2候補の「モカ」に変更。モカベージュというかグレージュというか、なんとも曖昧な色の猫なので。
犬メグと猫メロンがお世話になった近所の動物病院の先生の診断によると、モカの皮膚病は「真菌症」。野良さんが良くかかる感染性の皮膚病で、なんとヒトにもうつるとのこと。ヒトに感染ると「タムシ」と呼ばれるありがたくない皮膚病になるのだそうです。触ったら必ず手洗いをしてくださいと言われました。そういえば、モカを引き取りに行った息子が、兄弟猫も皮膚病で治療中だったと言っていたので、そこで既に感染していたのでしょう。
治癒するまで1ヵ月以上かかるらしいです。コナ薬をとりあえず1週間分、抗生剤の注射、感染部分の体毛が抜けるのでそこに塗る軟膏を貰って帰宅しました。お金もかかるし飼い主にも感染するらしいしで困ったことですが、粛々と治療を続けるしかないです。動物を飼うというのは、可愛さと一緒にこういう問題も引き受けることですよね。トホホ…。
目の上から毛が抜け始め、頭や脚に広がりました。何とも痛々しい様子です。
しばらく隔離した方が良いので、ケージを購入しました。2階建てでハンモックも付いている豪邸です。居間に設置したので、モカは食卓も窓の外も見ることができます。しかし、ここでおとなしく療養していたのは数日間で、薬が効き始めて気分が良くなるとケージから出たいと要求し、家中を探索するようになりました。
イヤハヤ、どーして、皮膚病が治るにつれ、とんでもなく大胆で野生的。狩猟本能に満ち満ちた、元気な女の子になってきました。
わが家に子猫がやって来た
8月初め、生後1ヵ月の子猫を引き取りました。知り合いの知り合いの、そのまた知り合いが5匹の子猫の里親を探しているとのこと。昨秋、20年間一緒に暮らした老猫メロンを看取ってから、わが家は寂しくなりました。猫が居なくなった心のスキマは猫の形をしているので、猫でしか埋められません。でも、私たち夫婦は高齢で最後まで世話できそうもありません。家族で話し合った結果、私たちが世話できなくなったら自分が責任を持って面倒を見ると息子が言うので、決心がつきました。コロナ禍が長引き、おまけに気候不順で散歩も庭仕事も難しい78歳の夫は、頻々と届く同級生の訃報にため息をついています。元気な子猫が夫に活気をもたらしてくれればいいな、という期待も少しはありました。
やって来たのは手のひらに乗るような小さな子猫。体重400g、体長15㎝。壊れそうな儚げな可愛らしさで、どう取り扱ったら良いのやら。
離乳したばかりで、よちよち歩き、水やミルクの飲み方も分からず皿に鼻を突っ込んではクシュ・クシュン!とくしゃみの連発です。トイレの使い方を教えようとしたら、疲れたのか、途中で眠り込む始末。突然親兄弟から引き離されて心細いのでしょう。1日目は餌もトイレも、スポイドで口に入れる水さえ飲まず、ひたすら階段の下に潜りこんで眠って居ました。
猫の赤ん坊は本当によく寝ます。数日経つと、猫の離乳食を食べ始め、トイレも覚え、自分のベッドで眠るようになりました。皆んな、この子猫の一挙手一投足に注目し、話題も猫のことばかり。名前の候補はいろいろありますが、なかなか決まりません。「小梅」「小雪」「なな」「モカ」…。はい、女の子です。
五感の衰え(1) 〜 聴覚
言葉が聞き取りづらい
この頃、耳がとても遠くなった。音はまだ良いのだが人の声がよく聞こえない。「え?」と聞き返すことが多くなった。特に、スーパーのレジなどで厚いビニールカーテン越しに、何か言われてもほとんど分からない。しかもマスクで声そのものもくぐもっている。スーパーで聞かれることは限られているので、多分「マイバッグはお持ちですか?」だろうと見当をつけて「持っています」と答えると合っていたりする。
テレビの音声は幸い、いつぞや紹介したネックスピーカーが大活躍。オリンピックの中継もはっきり聞こえる。度の合った眼鏡をかけ、ネックスピーカーの助けを借りると、見えづらい、聞こえづらい、という最近のストレスが一気に解消されて嬉しい。
アナウンサーの声は面白みがないと思っていたのはよく聞こえていた頃のこと。発声、発語、発音の訓練を徹底的に受けたアナウンサーの声ほど加齢の難聴にありがたいものはない。
それに比べて、家族の声の聞き取りづらいこと。元々、声が大きくもなく発音も明瞭ではないのに、家族はよその人のように向かい合ってきちんと話しかけてくれない。テレビを見ながら、風呂場から、庭から、何やら話しかけられてもさっぱり分からない。
ネックスピーカーのような首にかける集音器か補聴器があればと思う。コロナ禍でご無沙汰していた耳鼻咽喉科に行ってみようかな。嗅覚も衰えて来たので。いえいえ、コロナの嗅覚障害ではありません。持病のアレルギー性鼻炎のせいだと耳鼻科ではずっと言われています。
銀メダルのひと
大分での講演から帰る車中で、とても不思議で魅力的な男性と隣り合わせになりました。頭は光っていて眉も白いので老人だとは思うのですが、パープルで統一したトレーナーとスニーカー、そしてその立ち居振る舞いの軽やかなこと。年齢がさっぱり分かりません。
彼はリュックサックの中から新聞を取り出して、世界ベテランズ大会の種目別成績表を眺め、フムフムとひとり合点しています。身体中からうれしさ楽しさが発散しているのです。
揺れる車中をひらひらとバランスを取りながら歩く姿は、ただの老人ではありません。ハハア、彼は宮崎のベテランズ大会でよい成績が取れたのでいそいそと帰る車中なのだと、私はひらめきました。
というのは、前日の大分行きの車中でも大会のマラソンに出場するという選手とたまたま隣り合わせて、大会の内容や日程についてしっかり情報を仕入れていたので推理力が働いたわけです。
さて、彼が話しかけてきたので「宮崎の大会でいいことがありましたか」と訊ねると、子供のように無邪気に目を見張って「あんたは霊能者?」「ええ、冝保愛子先生の弟子なんです」、私は両手を合わせながらクスクス笑いました。
彼はベテランズ大会で、棒高跳びと三段跳びの銀メダルを獲って帰るところだったのです。75歳だということですが、その晴れ晴れとした表情、身軽さ、純真さ、とても年連が信じられません。
「あんたの仕事は?」と聞かれて「死の問題の研究者です」と答えると、「死、ねえ」と困った様子。
「僕は2年後のバッファロー大会で金メダルを狙うつもりでトレーニング計画を立てなくちゃならない。年々記録が伸びるので年を取るのが楽しみで仕方がないのです。死については今のところ関心がないね。あんたには申し訳ないけど...」
私は大笑いしてしまいました。この老人相手にターミナルケアの話は全く似合いません。
でも降りる間際、彼はふと真顔になりました。
「息子を17歳で亡くしました。肺がんで。東京オリンピックの直前だった。私はヤツの写真を胸ポケットに入れてオリンピックの審判を務めました。ヤツが死ぬ前、父ちゃんと一緒に行きたいと言ったもんで・・」
ひとりで下車すたあと、彼は私の窓のところへ来て、手をあげて目くばせをしました。それから競歩の足取りで腕を振り振りホームを歩き去ったのです。(完)
*書棚の整理をしていたら、1992年に発刊したエッセイ集「カーテンコールが終わるまで」という本が出てきました。中に「銀メダルの人」という東京オリンピック開催中の今の時期にぴったりの内容のエッセイがありましたので、書き写してここに載せてみました。40代前半に書いたものです。宜保愛子さんの名前が出ていたりして、いかにも時代の隔たりを感じますね(笑)
神学院の赤い屋根
梅雨の晴れ間に散歩に出かけました。七隈四角を真っ直ぐ南へ進むと福岡大学の医学部ですが、左へ折れて、地下鉄七隈駅前を大通り沿いにへ東へ歩くと、Q電の変電所や研修所、城南市民センターと図書館方面です。今日は、このブログのフォロワー、ジイジさんが子供の頃住んでいたと言われる一帯を散策してみました。ジイジさんとはお会いしたことはないのですが、子供の頃や学生時代、同じような地域で過ごしていたようなのです。
これまで私は、図書館をよく利用していました。が、最近は電子図書館で電子書籍を借りて済ませることが多くなりました。返却の手間がかからないのですごく楽。貸出期限が切れるといつの間にか本が自動的に返却され、消えて無くなっているのです。
公園の裏手が、ジイジさんが懐かしんでおられた赤い屋根の神学校です。当時は、聖スルピス大神学院と呼ばれていたと思います。2009年に東京カトリック神学院と合併され、日本カトリック神学院福岡キャンパスとなったそうです。
子供の頃、見慣れた建物や通学路がまだ残っているのは嬉しいものですね!
弁当を作る
コロナ禍、事務所で昼食を食べる息子と、自宅の自分たちのために、出来るだけバランスの良い弁当を作ることにしています。前夜の晩ごはんの食材を取り分けておいて全く別のおかずにしたり、生協の冷凍食品を使っていろいろ工夫するのは楽しいものです。
弁当といえば梅干。昨年は大きな南高梅で柔らかく味の良い梅干ができ、重宝しました。今年もそろそろ梅干作りの季節が到来します。
歩こう歩こう♪わたしは元気〜
身体も頭もかなり老化していますが、足腰は不思議に丈夫です。低血糖さえ起こさなければ、2〜3時間は平気で歩けます。ただし平坦な道に限ります。急坂や階段は苦手。
近所の、足を踏み入れたことのない路地や、表しか眺めたことがない古い団地の中をゆっくり歩いて探訪することも楽しみです。旧公団住宅はゆったりした配置、木々も大きく繁り、合間に中庭風な公園もあります。静かな公園のベンチで団地の住人みたいな顔をしてペットボトルのお茶を飲みます。「濃いお茶」が好き。あんこのお菓子にぴったりです。
さて、いつも買い物に出かけるバス通りから、真正面に見える山は油山です。福岡市民に親しまれている標高597mの低山。この道を真っ直ぐ行くと30分くらいで麓まで着くはず。歩こう歩こう、わたしは元気〜♪
麓には福岡大学のキャンパスが広がっています。大通りの右手は医学部と薬学部、看護学科。自宅から徒歩圏内に大学病院があるのはとても安心です。
スタバのコーヒー飲みながら、病院のロビーで池を眺めてゆったり過ごすこともできました。
結局、病院の裏通りを道なりに進み、左手の橋を渡るとすぐに油山の麓。崖の下には、マンションや学生アパートが密集して建っています。山裾というより、福岡大学の学生さんたちが行き来する大学の一角という感じの場所でした。
私が通った大学は、博多湾沿いの海の近くにありました。青春の光景というと潮風と砂浜、帆を傾けたヨット。友人達とたむろした西新町の喫茶店「ボンコアン」(でしたっけ?)のクリームソーダの真緑と白のコントラスト。福岡大学の近所には喫茶店もカフェも、そもそも店が少ないのです。学生さん達、地下鉄で天神まで出るのかな?福岡市の地下鉄は便利で、繁華街も空港も30分以内に着きますから。
楽しい散歩の時間でした。ぶらぶら散歩の所要時間は2時間ちょっと。皆さんもどうぞコメント欄で昔話などご自由に語り合ってくださいね!
庭のタケノコを愉しむ
わが庭のささやかな竹林に、今年もタケノコが生えました。型は小さいのですが、味はとても良いのです。朝掘って、皮を剥いて、米糠と唐辛子🌶を入れた、たっぷりの水で長いこと茹で、そのまま冷めるまで置いておきます。
木の芽和え、味噌汁、吸い物、ちらし寿司、タケノコご飯。
でも、何と言っても1番好きなのは、少し甘めの味付けで
鶏もも肉とコックリと煮合わせたもの。薄めに切って、アッサリ醤油味でさっと煮て
削りカツオをまぶしたものも美味しいです。
あー、巡る季節の食べ物って、しみじみ「今年も生きている」的な幸せを感じますね〜。
コロナの時代の高齢者にとっては尚のこと。
鶯に起こされる春の朝
今年は例年に比べて、春の自然界の行事が前倒しのようですね。入学式につきものの満開の桜が、卒業式の背景になっていましたもの。2月頃から「ケケ、ケキョ…」と頼りなく鳴き方の練習を始めていたウグイスも、今年はいきなり「ホーホケキョ」と朗々たる完成形で鳴いています。「鶯界も即戦力が求められる時代なんじゃない?」と息子は笑いますが、毎朝、6時半から窓のそばの木の枝でテノール(鳴くのはオスらしいので)がひびき渡ると、宵っ張りの朝寝坊一家は「あー、もう静かにして!」と苦情のひとつも言いたくなります。30分は鳴き続けています。「あらまー、風流じゃない。羨ましい環境ね」と友人達は言いますが。
最近、庭に鳥がやってきます。というか、餌を置いているからですが。スズメ、ヒヨドリ、メジロ。カラスも夫婦でやってきます。
無言で餌を要求するカラスの旦那さん。
奥さんは屋根の上から様子を見ています。
固いパンは水に浸して柔らかくして食べています。
さすがカラス。賢い!
1月末から、わたくし。高血圧、高血糖、不安感にうつうつ気分…心身の調子がグダグダ状態が続いています。あれこれ検査をしましたが、ストレス性のものではないかというところで落ち着いています。元々、メンタル弱いところへ持ってきて、この1年、みんな一緒ですが、閉塞した不安な日々でしたからね。おまけに、白内障手術後、視力が落ちてしまい眼鏡を3種類くらい掛け替えながら日々を過ごしています。手術の前にもう少し調べたり説明を求めるべきでした。